Top >行動する社民党 >東日本大震災現地調査
社民党全国連合の「大震災・原発事故調査団」は、山内徳信国民運動局長(衆院議員)を団長に、全国から70名が参加し、福島県川俣町・飯館村・南相馬市・相馬市・伊達市の被災地を調査した。7月2日福島駅西口に集結した調査団は2台のバスに分乗し出発した。我々が乗車したのは2号車。バスの中で八重樫小代子福島県連合副代表(郡山市議)から被災状況の報告を受けた。「郡山市は地震による被害が大きく、市庁舎は復旧に2年半ほどかかる甚大な被害を受け、使用できる公共施設で職員はひしめきあいながらかろうじて業務を行っている。現在郡山では553人の子供が県外に避難し、校庭の放射線量の測定を最も早く実施し、土の除染を始めたが土の処分先が決まっていない。当初文科省から拙速すぎると言われたが、ようやく変わり、子どもの年間被曝量も20ミリシーベルトから1ミリシーベルトになった。原発は福島だけの問題でない、福島県民9万3千人が県外に避難し、地震・津波・原発・風評被害の四重苦にあえいでいる。最大の問題は放射能に汚染された土とガレキの処分。引き続き支援をお願いする」と訴えた。
国道114号線を東進して川俣町を通過し、国道と別れて県道12号線を東に進み、やがて飯館村に入った。道路ですれ違う車はあるものの、計画的避難地域に指定され、民家には人影はまったくなく、生活の匂いはしない。田は田植えの準備かトラクターで耕した痕跡はあるものの雑草が生えていた。見渡す限り同じ風景で「時間が止まった」としか思えない。「飯館振興公社牧場」についた。公社前で現地の案内の方から、6,200人の村民のうち97%が避難し、家畜の処分(出荷)にたずさわる人、特例で屋内作業の工場と老人福祉施設関係者、防犯パトロールの266人が残っているのみ。村役場は福島市役所飯野支所に移転したこと、などが報告された。村自慢の公社牧場の入口ゲートは固く閉ざされ、すでに牛も飼育に当たる人達も避難した後で、広い飼育棟からは物音ひとつ聞こえず、夏草が生い茂るだけであった。
バスは更に東進して南相馬市に入った。この辺りはまだ避難指定区域ではないので人の生活を感じた。道の駅で小休止したが、災害派遣の自衛隊車と警察車両が目立つ。国道6号線を一路南下し、福島第1原発から20kmの検問所をめざす。国道と平行して走るJR常磐線のレールは真っ赤に錆、復旧の見通しは全く立っていないと聞いた。小高区に入ると海側に津波の痕跡を臨むことができたがまだ遠くて良く見えなかった。やがて20kmの検問所についた。これから先は特別の許可を受けたもの以外は一切通行できない。南北に完全に遮断された現場だ。
20km圏の大熊町・双葉町・富岡町・楢葉町・浪江町、南相馬市の南部・川内村の一部の住民は着の身着のままで避難したという。防護服を着て一時帰宅をして必要最低限のものを持ち出したが、いつ帰れるかわからない不安が避難住民に圧し掛かっている。畜産が盛んな地域だが、入るに入れず多くの家畜は殺処分となるが、殺処分に同意しない酪農家も多いという。放置された牛・豚などは悲惨なもので多くは畜舎で死に、飼い主が放した家畜は野放し状態で自然死を待つだけだという。南相馬市は、580人の方が亡くなり、109名が行方不明という。津波被害の家屋は1,509世帯であったとの説明を受けた。
そこから海沿いの道を北上した。最初に目に飛び込んできたのは引き倒された高圧送電線の鉄塔だ。高圧電線は引きちぎられているが、反対側の鉄塔は津波にのまれたのか痕跡がない。海岸から1km以上内陸に入った舗装もはぎ取られた道を大きく揺られながら進む。5トン位あろうかと思われる護岸の波消しブロックが道路の左右に累々と並ぶ。津波によって流されてきたものだ。家の基礎は残っているが家は跡形もない。少し小高い所の家は1階部分は津波でぶち抜かれ柱を残すのみ。津波が襲った後には真っ黒な「ヘドロ」が堆積し、取り除かなければ田畑としても使えないという。
原町区に入ると石炭火力発電所がある。靄がでてきたので視界が悪かったが、破壊された荷揚げ用のクレーンやタンクが確認できた。眼の前に排水ポンプ場があったがもちろん破壊され使えない。この辺りは地盤が40cm位沈下しているため、満潮の時は海水がはいってくるところもある。突然現地案内の方が「バスに戻れ」と指示する。バス2台で乗り付け、写真など取りまくり「観光」と受け取られかねないと、被災地感情に配慮したものらしい。現地のピリピリした雰囲気が伝わってきた。
バスは相馬市に入った。相馬市の犠牲者は432人、行方不明者27人、公共施設の被害も甚大で市役所南側庁舎は使用不能。冠水した田畑は1,210ヘクタール、漁船は363隻が使用不能、現段階では放射能物質による被害はないとのことであった。松川浦に入ったが、その手前の磯部地区は津波の被害が大きかったと説明を聞いた。建設省は津波の高さを最大で4.5mとし、5mの堤防を造ったが津波は堤防のはるか上まで押し寄せたとのこと。津波は堤防を1kmくらい破壊していた。引き波で海に消えたのか、堤防の構造物らしきものが陸上には見当たらないのだ。高さ5mの堤防なら底面は10m位、1m当たり50トンを越える構造物のはずだ。中部電力が浜岡原子力発電所に高さ15mの「防波壁」をつくると言っているが、この津波の破壊力を考えれば「壁は子供だまし」の代物だ。「中電に見せたい」との思いを強めた。
松川浦の相馬漁港はまだ多くの大型漁船が陸に打ち上げられたままであった。松川浦大橋というベイブリッジのようなつり橋の桁のすぐ下まで津波が襲い、対岸の道路が流されているので通行できないとのことであった。続く相馬港は岸壁の建屋は残っているものの、津波が入り全く使用できない状態が続いている。さらに北上し原釜尾浜海水浴場立ち寄った。コンクリート製の監視塔は残っていたが、3階建の店も3階部分を辛うじて残し、トイレなども破壊されていた。道路を隔てた内陸部には原釜の集落があるが、高台の家は被害を免れたものの、低い土地の家は基礎を残すのみで、正に言葉を失う光景であった。
なるべく多くの被害状況を見る企画でとにかく忙しかった。相馬市で現地の方々はバスを降りたが、復旧・復興対策に加え原発対策で大変多忙な中、対応してくれた福島県連合と相馬総支部の皆さんに感謝したい。我々は国道115号線を西に向かい、ホットスポットと呼ばれる伊達市霊山地区を経由し福島市へ帰った。宿泊所は飯坂温泉の、部屋にトイレも風呂もない歴史を感じる宿。夕食時に全員で犠牲者に黙祷を捧げたあと参加者の交流を行った。宿舎も2ヵ所にわかれたので我々の旅館は南から宮崎、愛媛、香川、島根、広島、和歌山、滋賀、三重、静岡、石川、新潟、千葉と全日建、全港湾、福島県職、服部議員秘書、全国連合関係者40名で、各県代表と労組代表がそれぞれの課題・運動への決意、調査の感想などを述べあい交流を深めた。服部議員秘書からは、脱原発アクションプログラムのプレゼンテーション用のソフトを作製したので活用してほしいとの要望が出された。もう一つの宿には青森、秋田、福島、栃木、埼玉、東京の代表と全国連合関係者が30名が宿泊した。
(2011年7月15日)
社会民主党「大震災・原発事故調査団」参加者
静岡県連合副幹事長 大河内俊雄
静岡県連合焼津支部代表 中山亜樹彦
|